へうげもの五話

信長は、人を信じるかどうかを、目を見て判断するという。この言葉は、「目は口ほどにものを言う」といわれるように、よくいわれることである。瞳孔の開き具合や、眼球の動きで判断するということだろう。
これに対し、佐介は、こちらに見識があれば、相手が騙したとしても見破ることができるため、相手の所有する物を見て決めることがあるという。物というものはただもっていればよいというものではない。良いものであればある程に、保管方法や、その物のほめ方が微妙になってくる。それを理解するまでには、それなりの見識が必要であり、それほどの物と見識をもつ人間ならば、信用できるという意味だろう。
しかし、私は、佐介の判断方法には賛同できない。なぜならば、逆にそれほどの物を所有する人間ならば、見識を付けるのは、所有することとセットのようなものであり、信用性の判断とは関係がないように思うからである。また、信用できないような人間ほど、相手を信用させるために、見識を深めるということも考えられる。加えて、多くのものを所有するということは、その陰で多くの血が流れている可能性も高い。したがって、所有する物では、その者を信用できるかどうかは判断できないと考える。なお、所有する物で判断できるのは、その者の社会的な地位ではないだろうか。
他方、秀吉は、「人間は本気になれば、目で人をだませる。しかし、手は騙せない。手は、その者がいてきたことを如実にさらけ出す。」と言い、手で判断すると言う。わたしは、3人の中では、秀吉の考え方が一番納得できた。例えば、日々ラケットを握り、練習を頑張る人間の手は、何度も豆がつぶれかたくなる。毎日家事をする人間の手は、荒れている。現代では、ネイルをする人もいる。爪を整える程度の人。深爪の人。爪を噛む癖のある人。また、話しているときの手の動き、手の握り。手というものは、その人の行動や考え方を現す指標のようなものである。したがって、私は、「手は口ほどにものを言う」ということもできると考えるため秀吉の考えに賛同する。
戦国時代も現代も、人の本心を見抜く能力というものが必要とされる時代である。人が何を見て判断するのかということを知ることも、楽しいのではないだろうか。

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